青島守備群司令官大谷喜久蔵の青島統治構想

Report4.jpg
大谷喜久蔵
大谷は陸軍将官としてはそれほど知られた存在ではないものの、青島での日本統治機関の最高指導者として日本の軍政統治に深く関わった人物である。大谷は1855年に小浜藩藩士・漢学者大谷正徳の子として生まれた。1875年陸軍士官学校(旧制)に第2期生として入学し1878年同校歩兵科を卒業した。日清戦争に従軍し、陸軍戸山学校長を経て、日露戦争では韓国駐箚軍参謀長に就任した。その後、戸山学校長に復帰し、教育総監部本部長、第5師団長を歴任した。晩年は、青島守備軍司令官、浦塩派遣軍司令官をつとめた1920年に予備役編入となり、23年に没した。/ 『西比利亜出征記念写真帖』日本電報通信社名古屋支局、1919年。国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)

現在、青島と言うと、頭に浮かぶのは青島ビールしかないでしょう。しかし、近代の青島と日本は予想以上に緊密な関係をもっていました。第一次世界大戦のさなか、日本の青島占領によって、青島を含む山東省における国際的な力関係が新たに構築されました。

日本の青島統治に関するこれまでの研究では、被支配者である現地中国人との関係については言及されていません。本論文は『大谷喜久蔵日記』を解読し、復辟派と革命派に対する青島守備軍司令官大谷喜久蔵の対応を軸に考察することによって、日本の影響力拡大のために行われた政治工作を究明しようと試みました。

大谷を中心とする青島軍政署は、表向きは北京政府側の代表者である山東督軍との交歓計画を立て、日中親睦の雰囲気を作り上げる一方で、青島を政治的避難所として選んだ清朝の旧臣たちを公私両面において優遇しました。恭親王溥偉を中心に清朝の復辟を目指して活動する宗社党一派に対しても、秘かに援助を与え、日本の中枢の元老たちとの接点を作らせました。さらに、山東で蜂起しようとした革命党に対しても資金、武器などの面において便宜を図りました。大谷は亡命政治家及び政治工作グループの動きを注視し、各方面から情報を収集し、また山東での勢力構図の不安定さをうまく利用して、日本の勢力拡大に努めたことが分かりました。

その後、青島を取りまく状況には再び大きな変化が起こりました。その変化に青島軍政署がどのように対処したかといった問題も、今後究明される必要があるでしょう。

単荷君「青島守備軍の懐柔政策―大谷喜久蔵の統治構想を中心として(1915-1917)」

『日本植民地研究』第31号、18-34頁、2019年6月。

文化科学研究科 国際日本研究専攻 単荷君

学生の研究学生の研究